夢は世界平和です

「核なき世界」を目指して。できることから少しずつ

エクリチュール - パロール問題*

- あるいはイスラム法とその解釈権に関する問題 -

アメリカの一部は何故イランを執拗に敵視するのかについての一考察

 

 2019/03/17 起稿

 

「2018年 - イラン核合意をめぐる動きについて」において、イランと米国の間の緊張関係の背後にあるものについて触れました。本稿では、さらにその背後にある政治的宗教的な構造に着目してみたいと思います。端的に言えばそれは「聖典 (権威) の解釈権」をめぐる争いであると言えるのではないでしょうか。言い換えると「エクリチュール」と「パロール」の問題でもあるとブログ主は考えます。

*エクリチュールパロール問題について

井筒俊彦「『コーラン』を読む」  岩波書店 (2013年2月15日 第1刷, 参照テクスト: 第6刷, 2017年7月5日)

 

エクリチュールになると、そういうシチュエーション的なものが脱落してしまう… (中略) … 特にパロールエクリチュールが空間的、時間的に隔たればますますです。(第二講 神の顕現, P51)

 

純粋命題になったものを、パロール的にこのコトバを聞いた B という個人とはちがった人、時代的にも空間的にも隔たった人が、全く新しい別の状況で、自分流に読んで了解する。そこで解釈学 (Hermeneutik) というものが成立するのです。(第二講 神の顕現, P51–52) 


私は『イスラーム文化**』のなかで、イスラーム文化は根本的に解釈学的な性格をもった文化であって、要するに『コーラン』解釈学がそのすべてなのだということを強調いたしました。(第二講 神の顕現, P53)

 

** 例えば「リンゴを食べろ」という命令がある。
この文は (原文傍点ここから) 命令形そのものとして (原文傍点ここまで)、いますぐ、ここで食べろということか、それとも、後でもいいから、それが可能になったら食べろということか。また後者の場合、可能になった第一段階でか、その後の段階でか。全部食べてしまうべきなのか、一口だけ食べればそれでいいのか。一回だけ食べればそれで命令の効力は消滅するのか、それとも今後何回かでも繰り返すべきなのか。一般に誰でも食べろということか、ある特定の人だけが、か。リンゴを食べろとは、リンゴだけを食べることであって、他のものを食べてはいけないという意味まで含意するのか、等々。

(井筒俊彦イスラーム文化」,Ⅱ 法と倫理, 岩波書店, 1992年, P150: 第41刷 = 2017年)


コーラン』にかぎらず、より一般的に、言語テクストというものは、そうしたものです。書かれたテクストとして成立したコトバは、最初にそれを喋った人、あるいは書いた人の意図を離れて、いろんなふうに解釈されるようになる。与えられた文書は一つでも、それを解釈する側の意識にいくつもの意味次元が成立するのです。それが書かれたテクストの言語と話された言語との違いです。(第十講 啓示と預言, P388)

 


=== === ===

さて、続いて、聖典の解釈をめぐる人間の足跡を、新約聖書を通して振り返ってみたいと思います (テクストは日本聖書協会の 1954年のものです)。

 

それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。(ローマ人への手紙 7:7)
律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。
すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。(ローマ人への手紙 7:7)

 

ここには、律法によってはじめて「罪」を認識することができたという、その存在意義がはっきりと書かれていると思います。しかし、律法はやがて形式化し、むしろ貧しい人、罪のない人を貶める手段へと変わりうる、ということも新約聖書の中には描かれているように思います。

 

わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。(ローマ人への手紙 7:5)

罪は戒めによって機会をとらえ、(ローマ人への手紙 7:8)

そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった。(ローマ人への手紙 7:10)


ふたりの人が祈るために宮に登った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは主税人であった。(ルカ 18:10)
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この主税人のような人間でもないことを感謝します。(ルカ 18:11)
わたしは一週に二度断食をしており、全収入の十分の一をささげています』。(ルカ 18:11)

ところが、主税人は遠く離れてたち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。(ルカ 18:12)


人の子は安息日の主である (マタイ 12:8) (cf. マルコ 2:28, ルカ 6:5)

パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した (マタイ 12:14)

こうして人々はイエスにつまずいた (マタイ 13:57) (cf マルコ 6:3, ルカ 4:24, ヨハネ 4:44)

 

このような変質した律法のありようは一体何のためであるのか、その目的もはっきり書かれています。すなわち、奴隷をつくるためです。


彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。 (エペソ人への手紙 5:12)

実を結ばない やみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。 (エペソ人への手紙 5:11)

ーー彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためであった。(ガラテヤ人への手紙 2:4)

ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。(ヤコブの手紙 2:20)

霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。(ヤコブの手紙 2:26)


あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。
熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。(ヤコブの手紙 4:2)

あなたがたは、地上でおごり暮らし、快楽にふけり、「ほふらるる日」のために、おのが心を肥やしている。(ヤコブの手紙 5:5)
そして、義人を罪に定め、これを殺した。しかも彼は、あなたがたに抵抗しない。(ヤコブの手紙 5:6)


それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、(ヘブル人への手紙 2:14)
死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。(ヘブル人への手紙 2:15)

 

ナザレのイエスの存在によって、(律法を通じた) 死の恐怖から解き放たれ得る、ということがわかります。一部の人間に都合の良いように利用される、変質した律法から、普遍的な価値のあるものとしての「恵み」の提示がなされたと考えることもできます。


罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。(ローマ人への手紙 5:20)

それは、罪が死によって支配するに至ったように、恵みもまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである。(ローマ人への手紙 5:21)

 

一方で、このような解放された人々を、またしても奴隷にしようとする試みが存在することも、新約聖書には描かれているように思います。

 

あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。(ヘブル人への手紙 12:3)

ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしている (ガラテヤ人への手紙 1:7)

兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかもしれない。(ヘブル人への手紙 3:12)

少しのパン種でも、粉のかたまり全体をふくらませる。(ガラテヤ人への手紙 5:9)

 

ローマ人への手紙:
もしあなたが、自らユダヤ人と称し、律法に安んじ、神を誇りとし、(1:17)
御旨を知り、律法に教えられて、なすべきことをわきまえており、(1:18)
さらに、知識と真理とが律法の中に形をとっているとして、自ら盲人の手引き、やみにおる者の光、愚かな者の導き手、幼な子の教師をもって任じているのなら、(1:19, 20)
なぜ、人を教えて自分を教えないのか。盗むなと人に説いて、自らは盗むのか。(1:21)
姦淫するなと言って、自らは姦淫するのか。偶像を忌みきらいながら、自らは宮の物をかすめるのか。(1:22)
律法を誇としながら、自らは律法に違反して、神を侮っているのか。(1:23)
聖書に書いてあるとおり、「神の御名は、あなたがたのゆえに、異邦人の間で汚されている」。(1:24)
もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立とう。しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。(1:25)
だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。(1:26)
かつ、生まれながら無割礼の者であって律法を全うする者は、律法の文字と割礼とを持ちながら律法を犯しているあなたを、さばくのである。(1:27)
というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。(1:28)
かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。(1:29)

 

 

では信仰とは何か?それはみなさんが各々考えるべきこととブログ主は思いますが、新約聖書には次のようにも書いてあります。

 

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。(ヘブル人への手紙 11:1)

 

信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。(ヘブル人への手紙 11:4)

 

さて、聖典 (律法) が一部の支配階級によって、その他の人々を奴隷のように扱うために用いられたこと、肉体に与えられるその刑罰に対する恐怖からの解放がなされたこと、また、再奴隷化の試みの圧力が常に存在すること、こういったことが新約聖書には描かれているようにブログ主は感じました。翻って、現代においてはどうでしょうか?

 

アベルの血よりも力強く語るそそがれた血 (ヘブル人への手紙 11:24)

 

サウジアラビア当局者が「計画・実行」= 記者殺害で国連特別報告者

サウジアラビア人記者ジャマル・カショギ氏がトルコ・イスタンブールのサウジ総領事館で殺害された事件で、調査を行っている国連のカラマール特別報告者は7日、事件は「サウジ当局者が計画、実行した」とする中間報告を公表した。

www.jiji.com

 

さて、サウジアラビアは 2018年、2019年のイランとアメリカとの関係の中で、どのように位置付けられるのでしょうか。

 

www.asahi.com

 

中東で覇権を争う二つの地域大国、イランとサウジアラビアが明暗を分けている。内戦が続くシリアでは、イランが支えるアサド政権が優勢を固め、サウジが支援する反体制派は退潮が著しい。サウジはトランプ米政権に接近して挽回(ばんかい)を期すが、なりふり構わぬ外交がアラブ諸国を分裂させている。

 

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https://www.asahi.com/articles/ASL4T6GFFL4TULFA03Z.html

 

とあります。サウジアラビアとイランの関係、特に聖典解釈に関する対立については、以下の資料を参考にしてください。


 

< イスラーム法解釈権とイラン (シーア派, イスラム革命) 問題 >


井筒俊彦イスラーム文化」, 岩波文庫, (1991年, P162, 参照テキスト: 第41刷 = 2017年)

 

イスラームの歴史のかなり早い時期に、法律に関する限り聖典解釈は絶対にしてはいけないと、聖典解釈の自由が禁止されました。具体的には西暦九世紀の中頃のことであります。(Ⅱ 法と倫理, P162)

 

個人が自由に『コーラン』と「ハーディス」とを解釈して、法的判断を下すことを、法学の術語で「イジュティハード」(ijtihād) と申します。…そのイジュティハードが公に禁止されてしまう。人間生活に関するあらゆる重要な問題はもう出尽してしまったし、それに対する法的解決も完全についてしまった。もはや議論の余地はまったくない。だからもうこれからは個人が自分勝手に独立に『コーラン』や「ハーディス」を解釈して、法的判断を下すことはいけない。すべて昔の権威者が解釈してくれたとおりに、それに従って判断すべきである、というわけであります。(Ⅱ 法と倫理, P162)

 

この事態をイスラーム法学の術語で「イジュティハードの門の閉鎖」、自由解釈の門が閉じられた、と申します。(Ⅱ 法と倫理, P162–163)

 

聖典の自由解釈を禁止してしまったおかげで、イスラームが収拾すべからざるアナーキーに陥ることだけは避けられました。それはたしかですが、しかしそのかわり、活発な論理的思考の生命の根を切られてしまったイスラームは、文化的生命の枯渇という重大な危険に身をさらすことになるのであります。事実、近世におけるイスラーム文化の凋落の大きな原因の一つでそれはあったのです。(Ⅱ 法と倫理, P163)

 

それにつけても思われますのは、最近イスラームルネサンスということが各方面で叫ばれていることです。…中略… 外国人の客観的な立場としましては、これほど石油で経済的に潤ってきたイスラーム世界、ここらでひとつ立ち上って、さっさと自分を近代化したらよさそうなものではないかという、一種のもどかしさかもしれませんが、イスラーム自身の立場としてはそう簡単ではありません。イスラームの枠をかなぐり捨ててしまうならいざ知らず、そうでない限り、どうしてもここでイジュティハードの問題に突き当たるのであります。(Ⅱ 法と倫理, P163–164)

 

イジュティハードの門をはじめからぜんぜん閉じることをしなかったイランのシーア派イスラームだけは例外といたしまして、アラブの世界では未だにイジュティハードの門は開かれておりません。ですから、昔のままのイスラーム法ではどうしても現代世界ではやっていけないと信じる人々は、イスラーム法を潔く見捨てましてーーということは、スンニー派的に考えれば、イスラーム共同体を立ち去ってということですがーー西欧主義者になる、そして西洋の近代法で生きていくほかはありません。これはいまの現代イスラームの抱えている大きな問題の一つであります。この問題を将来に向ってどう解決していくのか、それは現代の、少なくともスンニー派、つまりイスラーム大多数派の人たちが当面している課題なのであります。(Ⅱ 法と倫理,  P165)

=== === ===

< シーア派に関する補足 >

井筒俊彦イスラーム文化」岩波文庫 (1991年6月17日 第1刷, 参照テクスト: 第41刷, 2017年2月6日)

 

シーア派第六代目のイマーム(ジァアファル・アッ・サーディク Ja’far al-Ṣādiq 七六五年没)の言葉に「われわれは異邦人だ、異国人 (とっくにびと) だ」というのがあります。「外面への道」を行くウラマーたちによって樹ち立てられた共同体的機構のなかで、彼らは現に自らを異邦人と感じているし、またそう感じ、そう自覚することが正しいのだというのであります。「われわれは古代エジプト、ファラオの民の間に生きたイスラエル人のような位置にある」という、シーア派四代イマーム(アリー・ザイヌ・ル・アービディーン 'Alī Zain al- ‘Ābidīn 七一一/七一四年没)の言葉はこの感覚をよく言い表しています。だが本当はシーア派だけではありません。一般に「内面への道」をとる人々はみな大なり小なり自分たちがイスラーム共同体における異邦人であることを意識している。また同時に、異邦人であることによってこそ、自分たちは本当の意味でのイスラーム教徒なのであるという誇りがそこにはあるのです (P176–177)。

 

「外面への道」とは … 中略 … 共同体 (ウンマ) への道、すなわち『コーラン』後期 = メディナ期の精神に基づく文化パターンとして、宗教を社会化し、政治化し、法制化し、そしてついにはそれを … 中略 … シャリーア、つまりイスラーム法にまで仕立て上げていった正統派ウラマーたちの道のことです。(P170–171)

 

「外面への道」と申しますと、何か軽蔑的に響きましょうし、また事実、「内面への道」を代表する人たちにとっては軽蔑どころか憎悪の対象ですらあるわけですけれど、客観的に見れば決して「外面への道」を外面的であるという理由で軽視するわけにはまいりません。(P171)

 

ただ … 中略 … 「内面への道」をとった人々の目から見ますと、どうしてもそれが外面主義、形式主義に見えてくる。(P172)

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イランと米国が様々な局面で対立していることは明らかです。その一方で、スンニ派の盟主ともいえるサウジアラビアと米国は接近している。その背景の一つに上記、聖典解釈をめぐる宗教的な問題があるのではないかとブログ主は考えています。米国大統領の有力な支持母体として、右派の福音派の存在が挙げられます。

 

www.nhk.or.jp

 

有り体に言えば、国民の4人に1人を占める福音派からの支持なしには、選挙に勝てない現実があるのです。

 

synodos.jp

 

1976年の大統領選では、ジミー・カーターが大統領候補として初めて「ボーン・アゲイン」を公言した。これにより福音派から支持をうけ、下馬評を覆して勝利したので、タイム誌はこの年を「福音派の年」と呼んだ。1980年の大統領選挙では、福音派レーガンの勝利に大きく貢献した。

 

この時、教会の礼拝によく出席する人は共和党に投票し、あまり出席しない人は民主党に投票する、という「ゴッド・ギャップ」が生じ始めている。これ以降、共和党内では、福音派を味方につけなければ大統領候補になれない、という状況が生じた。

 

宗教右派」は盛衰を繰り返しているものの、その母体となる福音派の存在は一貫しており、1970年代以降の大きな流れは続いている。エルサレム大使館の移転も、その流れのなかで生じたものにほかならない。 

 

なおイスラエル支持の理由として、千年王国説が挙げられることがある。これは、すでに見たように、宗教保守の源流の一つにある思想で、終末が訪れる前に千年続く王国が実現する、と考える終末論の一種である。この実現には、イスラエルの再建が欠かせず、1948年のイスラエル建国は、まさにその第一歩だと受け止められ、福音派を湧き立たせた。さらに1967年の東エルサレム奪還は、いよいよ聖書の預言が成就されつつある証拠だと考えられた。キリスト教シオニズムの特徴として取り上げられることも多いが、一般人には信じがたく、福音派が狂信的な人びとだと見なされる理由の一つになっている。

 

福音派のすべての人々が狂信的とはブログ主は思いませんが、トランプ大統領の中東政策がこれまでの関係各国の合意を無視した過激なものになっていることは疑いようがないでしょう。聖書の記述を元に、これまでの経緯も現在の状況も考慮せず一方的な解釈を押し付け、反対意見を述べる者には恫喝まがいのことをして黙らせようとする。

 

www.yomiuri.co.jp

パレスチナ自治区ガザでは、大使館移転に抗議するパレスチナ人のデモ参加者とイスラエル軍が衝突し、市民60人以上が死亡、3000人以上が負傷する惨事に発展している。親イスラエル一辺倒路線を突き進むトランプ政権が、混迷の中東をさらに危険な「負のスパイラル」に追い込んでいる構図

 

www.newsweekjapan.jp

 

ゴラン高原はシリア南西部に位置する約1200平方キロの土地。東に60キロ離れたシリアの首都ダマスカスやヨルダン川流域を見渡せるため、軍事戦略上重要な拠点。1967年の第3次中東戦争で、シリア領だったゴラン高原イスラエルが占領。1981年に一方的に併合したが、アメリカを含む国際社会は現在までイスラエルの主権を認めてこなかった。

ロシアによる一方的なクリミア半島併合を批判してきたアメリカの立場も傷つく。「(トランプがゴラン高原イスラエルの主権を認めれば)武力併合は違法とする国際法の原則に基づいて、アメリカがロシアを批判していくことが今後は難しくなる」と、米シンクタンク「センター・フォー・ア・ニュー・アメリカン・セキュリティ(CNAS)」で中東の安全保障ディレクターを務めるイラン・ゴールデンバーグはツイートした。「アメリカは立場を失い、ロシアがそれを逆手に取るはずだ」

 

こういった姿勢は新約聖書においてナザレのイエスを律法を以って試みたパリサイ人を想起させるものがありはしないでしょうか。聖典解釈に対して自由を許容するシーア派が多いイランは、米国における聖書解釈を揺るがしかねないという点で、米国にとって宗教的にも脅威になりうるとも考えられます。そのために、米国の一部層から執拗に敵視されているのではないかとブログ主は考えています。